児童精神科医高岡健の映画評論

児童精神科医の高岡健さんが、子どもや家族を描いた映画について、語ります。

父の自殺と子の精神行動症状とのあいだ:「ポプラの秋」

Vol.15 更新:2015年10月05日

▼「ポプラの秋」(大森研一監督)は、いわゆる御当地映画の1つで、飛騨高山が舞台になっている。私の暮らす岐阜市から高山市まではJRで2時間かかるが、それでも仕事で何回か出かけた場所だから、私には馴染みのある場面が含まれ親しみを感じる。(たとえば、東京の病院という設定になっているが、久美愛厚生病院という、高山市内の病院が登場する。)

▼ちなみに、2015年9月26日「毎日」の岐阜地域面によると、高山市役所は、ロケ地マップを製作するなど、この映画を通じた観光PRに力を入れているらしい。だが、高山という場所に馴染みのない観客にとっては、やや退屈な作品だろう。田舎の時間の流れや老人の時間の流れに同調させたつもりなのだろうが、とにかく映画の流れがゆっくりすぎる。だから、すべてが図式的に見えてしまうのだ。

▼高山線の各停列車でやってきた母子が、飛騨一ノ宮駅で降りる。母(大塚寧々)は、子の千秋(本田望結)に対し抑揚の乏しい声で、いちいち「・・・しようか?」と尋ねるが、8歳の子は「お母さんがそうしたいなら」と従うしかない。その背景には、父の自殺という事実がある(子には交通事故だと説明されているが)。無表情で歩く母から遅れないよう、速足になってしまう千秋を、子役の本田は、うまく演じていると思う。繊細な表情など、演じすぎているとさえ言っていいほどだ。このあたりは、あまり退屈を感じさせない。

▼母子は、ポプラ荘というアパートの一室を借りて住むようになった。しかし、千秋は強迫神経症に罹ったらしく、あさ学校へ出かけながら戸締りが気になり、何度も確認のため帰宅するようになる。ついに千秋は発熱を来たすが、母は仕事があるので看病が出来ない。そのため千秋は、大家のおばあさん(中村玉緒)に看病してもらうことになった。この辺から、老人の時間の流れに移行し、退屈感が高まってしまう。

▼それでも、おばあさんが千秋にすすめた「死者に手紙を書く」という方法(おばあさんには、預かった手紙を箪笥の抽斗に保管しておいて、死ぬときにあの世へ持っていく役目が、先祖代々あるのだという)は、安易に真似すべきではないが、死者との心の別れを完成させるための喪の作業としては、適切な方法になりえていると思う。

▼ところが、成人後の千秋は、薬物の散らかった部屋で一人暮らしをしている。半ば向精神薬依存なのだろうが、それにしてもそうなった必然性が、観客には全くわからない。ただ、千秋の職業は看護師で、勤務医と不倫関係にあり、妊娠していながら別れ話に直面しているという陳腐な背景が、描写されているだけだ。

▼幼い千秋は、亡くなった父に宛てて手紙を書き続けることで、別れを完成させたのではなかったのか。それなのに、どうしてこういう転帰をとるのか。成人後の千秋に電話を架ける母の精神状態も、良いのか悪いのか声だけではわからない。ゆっくりすぎるまま進行した時間が、転帰とうまく結合しないのだ。(でも、悪い映画ではないので、ぜひ観てください。)