児童精神科医高岡健の映画評論

児童精神科医の高岡健さんが、子どもや家族を描いた映画について、語ります。

ここだったら、みんないる:「トーキョーナイトフォール」

Vol.120 更新:2026年8月23日

▼清水友翔監督の作品「トーキョーナイトフォール」は、同監督の前作「僕の中に咲く花火」(この映評欄のvol.108参照)の変奏または拡散型といっていいと思う。前作では、接待と称して遅くまで帰宅しない父親、不登校で部屋へ引きこもる妹、死後の世界を知るためドラッグを試すが吐いてしまう兄が、田舎町の家で暮らしていた。家族内では、「そうか」という相槌が、関係の崩壊を期せずして食い止め中和する形で用いられていた。一方で、兄の妹に対する「みんな学校へ行ってほしいと思っている」という言葉の繰り返しは、妹の自死をもたらした。それでも妹は、「お兄ちゃん、ありがとう」と言い遺す。

▼本作「トーキョーナイトフォール」でも、父親は姿は見せないものの否定的にとらえられているし、妹のアンナ(葵うたの)は、同級生の自殺を目撃してから変調をきたし自死へ至るという設定になっている。また、兄の雨無(安部伊織)は、妹の自殺は自分のせいではないかと悩むが、妹は兄には感謝しているとの言葉を遺している。(ちなみに、前作の兄を演じた安部伊織と彼の年上の恋人を演じた葵うたのは、上述のとおり、本作ではそれぞれ兄の雨無と妹のアンナを演じている。)

▼このような変奏は、単なる反復ではない。前作の田舎町が日本のどこか(岐阜)に特定可能だったのに対し、本作においてストーリーの骨格をなす集団自殺の場所は、普遍的な記号としての大都市東京へと拡散している。また、前作で描かれた不登校が特別視されていた時代は、本作においては、荒い画質のホームビデオの映像から年代を推測することはできるものの、自殺の背景が均質化された記号として扱われてしまう現在へと拡散している。それでも、秀作によくみられる破調でもなければ、凡作によくある予定調和でもないところは、前作と本作を貫く特徴だ。

▼本作では、アンナの遺したビデオ画面(雨無および共通の友人である服部と能津へのインタビュー)と、集団自殺を実行するイベントの場所として設けられたクラブのシーンが、交錯しながら進行する。クラブには、すでに死んでいるはずのアンナの幻影も現れる。「(実家へ)帰ってくると、みんな嫌がるんだって」「私たちだって嫌がっていたでしょう、帰ってくる父親のこと」「毎日泣いて、そこまでして生きる理由は?」「どうすれば良かった?」「そういうところが重たかった」「ここだったら、みんないる」――クラブでは、こんな会話が交わされる。というよりも独白が静かに飛び交う。

▼集団自殺(私は芹沢俊介に倣って集合自殺と呼んでいる)は、今世紀に入って間もないころから練炭を典型的な手段として行われるようになり、今も断続的に生起している。死ぬ前のわずかな時間、いままで知らなかった人同士が集合して過ごし、仮初めでも幸せな時間として記憶にとどめることが集合自殺の本質ではないか。私は、幸いにも生き延びた集合自殺未遂者の話を診察室で聴いて、そう思ったことがある。