児童精神科医高岡健の映画評論

児童精神科医の高岡健さんが、子どもや家族を描いた映画について、語ります。

捨てきれなかったもの:「ウィズネイルと僕」

Vol.1  更新:2014年7月31日

▼1990年代の後半に、ごく短い期間だったがロンドンで暮らしていたことがある。その頃に観て記憶に残っている映画の一つが、「ウィズネイルと僕」(ブルース・ロビンソン監督)だ。1987年の製作で公開は1991年だというから、繰り返し上映されていたのだろう。

▼よく聴き取れない英語もあったから、スクリプトを買って二度ほど観たと思う。日本でビデオを探したこともあるが、発売されていないようだった。その作品を今年、日本の映画館で観ることができて、小躍りするほどうれしかった。

▼映画は1969年、ロンドンのカムデンタウンにある、アパートメントの一室からはじまる。「僕」は、丼くらいの大きさのボウルで黒い液体をすすっている。スープを飲んでいるのかと尋ねるウィズネイルに対して、「僕」はコーヒーだと答える。続いて、「どうして他の人間(human being)のように、カップを使わないんだ?」「そういうなら、どうして他の人間のように、ときどき(食器を)洗わないんだ?」という遣り取りが交わされる。

▼アパートには、アルコールとドラッグを運ぶダニーも現れる。彼は、全ての美容師は政府の雇われだ、髪の毛はアンテナだから宇宙からのシグナルを拾い上げそれを脳に直接伝える、これが禿げ頭の人をぴりぴりさせる理由だなどと、とりとめのない内容を話し続ける。

▼その後、ウィズネイルと「僕」は、ウィズネイルの叔父が田舎に持っている別荘で日々を過ごすことにした。しかし、田舎は暮らしよい場所では全くなかった。そうこうしているうちに「僕」はオーディションに合格し、ウィズネイルとロンドンへ戻る。だが、アパートの大家からは立ち退きを求める通知が来ていた。ウィズネイルは、酒瓶を持って「僕」を見送り、寂しくなるなあ(I shall miss you)と、最後の会話を交わす。

▼たったこれだけの展開だ。あらゆる場面に笑いが嵌め込まれているのに、最後はどうしようもないほどの哀感が残る。

▼叔父が別荘を持っているくらいだから、ウィズネイルの出自は裕福な家系なのだろう。それに、「僕」よりもウィズネイルのほうが、役者としての才能があるようにみえる。しかし、オーディションに合格したのは「僕」で、ウィズネイルは取り残されたままだ。その時点から20年近くが経過しても、おそらくウィズネイルは鳴かず飛ばずのままなのだろう。

▼私の周りにも、ウィズネイルのような人がいる。彼は、そもそも卑小な成功などを夢見たことはなかったのだろう。もちろん私は成功といったものとは程遠いが、それでも映画の「僕」のように、ウィズネイルのような人と出会ったことを思い出すことがある。そういう体験が反復されることによって、この映画への支持が連綿と続いているに違いない。

▼「僕」が捨てきれなかったものの反照と言い換えることもできるだろう。「僕」からウィズネイルへ向かう照度と、ウィズネイルから「僕」へと向かう照度が同じかどうかはわからないが、同じであってほしいと思わせるような瞬間がある。