児童精神科医高岡健の映画評論

児童精神科医の高岡健さんが、子どもや家族を描いた映画について、語ります。

等身大の青春期:「僕らの世界が交わるまで」

Vol.92 更新:2024年3月2日

▼深刻ぶってみてもステレオタイプな闘病物かトラウマ語りか、そうでなければ安易な性別違和の話ばかりの昨今の映画にあって、久々にスタンダードなつくりの青春期映画を愉しむことが出来た。「僕らの世界が交わるまで」(ジェシー・アイゼンバーグ監督)は、舞台装置の一つにDVシェルターを用いながらも、フェミニズムやトラウマを扱っているわけでは全くない。

▼高校生のジギー(フィン・ウォルフハード)は、幼少期に、母親のエヴリン(ジュリアン・ムーア)に連れられて、デモやプロテスト運動に参加し、プラスチックのギターを弾きながら「花はどこへ行った」を歌ったこともあるが、今では全く覚えていない。現在の彼は、自作の歌をストリーミング配信して「2万人のフォロワー」から投げ銭を稼ぐことに、喜びを見出している。そんなジギーが、政治活動に打ち込むライラに恋をしたが、彼女からは相手にされない。一方、DVから逃れてエヴリンのシェルターに母とともに入所したカイルは、ジギーと同じ学校へ通う優秀な生徒だった。エヴリンは、カイルに大学へ奨学金を利用して進学するようすすめ、そのために過剰なほど骨を折るが、カイルはそれに応えず卒業後は自動車修理工場で働くという――。

▼息子ジギーにとっては母親代わりというべきライラ、母親エヴリンにとっては息子の代わりというべきカイル。きわめてシンプルな青春映画の構造だ。だが、それ以前に、侵略戦争や地球温暖化といった政治主題を家庭に持ち込んで、家族関係が上手く続くはずがないという、当然の事実がある。そういう誰もが解っているはずの当たり前の事実を、意識高い系の人たちはほとんど忘れている。一種の悲劇に含まれる喜劇とでもいうべき描写だが、それがもう一つのシンプルな構造として、この映画を形づくっている。

▼ところで、ライラの参加する集会をジギーが覗いたとき、そこで歌われていたのは「インターナショナル」だった。同じ集会で、ライラはマーシャル群島に対する各国の植民地支配をテーマにした自作の詩を朗読する。その詩に曲をつけた音楽を含め、ジギーがつくる楽曲は、それほどの出来ばえではないように聞こえるところがいい。

▼ジギーが配信し、映画の終盤でエヴリンが再生する音楽動画の歌詞に含まれる、レールのような平行線といった表現から、「僕らの世界が交わるまで」という邦題が考え出されたのだろう。冴えない感じがするようでも、原題は「WHEN YOU FINISH SAVING THE WORLD」だから、両方を合わせると「世界を救済するという物語を終えて初めて、家族間の交流ができる」という意味になる。映画の中盤で母親エヴリンが息子ジギーに「配信プラットフォームを使って何がしたいの。」と嘲笑気味にまくしたてた関係は、終盤で少しだけ修復される。その「少しだけ」というところが、またいい。このような等身大の青春期は、初監督作品だから描くことができただけなのか。そうではないことを祈る。