児童精神科医高岡健の映画評論

児童精神科医の高岡健さんが、子どもや家族を描いた映画について、語ります。

メタ・ドキュメンタリー・フィクションの傑作:「解放区」

Vol.51 更新:2019年11月11日

▼これまでにも、ドキュメンタリー仕立てのフィクションというジャンルの、秀作映画があった。また、ドキュメンタリー映画の制作過程を追った、パラ・ドキュメンタリーの愚作もあった。だが、テレビ・ドキュメンタリーの撮影チームにおける内部分裂をフィクションとして描くことが、限りなくリアルの世界へ近づくという手法は、ありそうでなかったと思う。その、ありそうでなかった作品が、「解放区」(太田信吾監督・脚本・主演)だ。ざらついた粒子のような画面が、このメタ・ドキュメンタリー・フィクションとでもいうべき作品の、本質を支えている。

▼映画は、「ひきこもり」の家庭を撮影するシーンから始まる。「ひきこもりと言ったって、うちは統合失調症だから」という、母親の説明がある。そして、中盤からは、大阪の西成(釜ヶ崎)へと、場所が移る。いうまでもなく、経済的貧困と背中合わせの街だ。こういうディーテールは、よく計算されていて、観る者を思わず唸らせる。実際に、社会的ひきこもりという似非概念は、病気を「ひきこもり」の名のもとに覆い隠し、自己責任化した。同様に、貧困を「ひきこもり」の名のもとに覆い隠し、自己責任化した。

▼自己責任化しておいて、孤立ではなく相談をなどと説教しても、通用するわけがない。同じく、犯罪に手を染めざるをえないところにまで追い込んでおいて、「ひきこもり」が犯罪に結びつくわけではないなどと啓発しても、綺麗ごとでしかない。映画の中で、内部分裂したテレビ・ドキュメンタリー・チームの一方が、「ひきこもり」の青年の兄を連れ出して説教することで引き出し屋へと堕し、もう一方は、「現代の若者のリアリティ」を撮影するために、「ひきこもり」の青年を金銭的・肉体的に利用する。(「搾取」という言葉が使われていた。)つまり、どちらも、同程度に詰まらない行動であるがゆえに、釜ヶ崎の風景と、多くは無名の出演者たちの陰に、隠れてしまうということだ。

▼観客にとって、嫌でも目に焼き付けられる風景とは、SHINGO★西成のラップ・コンサートであり、「50円」と値段が書かれたお好み焼き屋であり、ドヤであり、「釜ヶ崎解放」の旗だ。また、無名(といってはやや語弊があるかもしれないが)の出演者たちとは、建設業の労働者であり、枕探しをする女であり、覚せい剤の客引きや売人だ。こういった風景と人々の陰に隠れてしまうにとどまらず、飲み込まれてしまう結果もまた、この作品には描かれている。

▼なお、この映画には、外国の映画祭における上映のためと思われる、英語のサブタイトルが付けられている。また、英語の題名はFragileだ。Fragileという英語に関しては、私は「脆弱」という意味しか知らないが、そういう意味合いで用いているのだろうか。だとすると、「解放区」というニュアンスは、海外の観客に伝わるのかどうか。その点だけが、わからなかった。