歯切れの悪さは弾圧を意識してか:「未完成の映画」
Vol.106 更新:2025年6月3日
▼新型コロナパンデミック状況下でスマートフォンを使い制作した映画といえば、「8日で死んだ怪獣の12日の物語」が思い浮かぶ。あの作品は、映画づくりを日常の仕事にしている最中にコロナという非日常的出来事が襲ったとき、騒ぐことなく仕事として空想をつむぎだすことができる人たちのクリエイティビティを、自然なユーモアをまぶして描いていた。一方、今回とりあげる「未完成の映画」(ロウ・イエ監督)の場合はどうか。
▼モキュメンタリーであるこの作品は、映画の劈頭に埋め込まれた、もう一つの自主制作らしい映画をパソコンで再生するところから始まる。その未完成の映画を10年ぶり(だったか)に完成させようとして集まった、劇中劇=映画中映画の監督ジャン・チョン(チン・ハオ)をはじめとするスタッフと俳優達は、折からの新型コロナパンデミックにより、ホテルに隔離される。スタッフの一人に武漢出身の感染者がいたのだ。外出を禁じられた映画関係者にとって、外部への通路はスマホの画面とビデオ通話によるしかなかった。
▼ホテルから外へ出ようとしたジャン・チョンは警備員だか警察だかに押し返され、もみ合いの中で顔に怪我をする。差し入れられた消毒薬を塗りながら、心配する妻とスマホでやりとりする彼は、「隣に女はいない、ある意味では一番安全だ」と、楽しけではない表情で冗談を言い、それを聞いた妻は無理に笑おうとする。そういう場面を挟みながら、他方では仮設病院の屋外らしき場所で、民衆が防御服を来た人たちと春節を祝い踊る――。
▼うまく考えてつくってあるし、各方面から好評を得ているのにも根拠があるのは間違いないのだが、私のような日本の観客にとっては、どこか空回りしたままで憤ることも楽しむこともできないのが、正直な感想だった。おそらく、コロナ状況下でのスマホ映画という方法自体が、静的で散文的な抒情表現には向いていても、動的で祝祭的な表現には向いていないのではないか。私の見方が歪んでいないと仮定しての話ではあるが、どうしてもそう思わざるをえない。
▼この映画には、新型ウィルスによるパンデミックに対して最初に警鐘を鳴らした、武漢の眼科医=李医師の顔写真が、何か所かに挟みこまれている。加えて、ゼロコロナ政策に反対する上海デモの画面もある。これらはモキュメンタリーとドキュメンタリーとの境界にグラデーションをかける効果を狙っているのだろう。
▼翻って、この映画の初めの部分を想起すると、映画中映画について(検閲のため)上映できないのになぜ撮るのかといった会話が、交わされている点に思い至る。同じくこの「未完成の映画」自体も、中国では(ゼロコロナ政策に反するため)上映できないのだという。ロウ・イエ監督は、映画中映画の監督と同じく、国内で上映できないのになぜ撮るのかと自問しながら、上映できるようになるまでの過渡としての撮影を進めたのだろうか。歯切れの悪さは、弾圧を意識した未完のせいなのかもしれない。